三十六古戦場

三十六古戦場

昭和18年(1943)  鎌田共済博物館蔵

林田町にあり、細川清氏(きようじ)が従弟の頼之(よりゆき)と戦って兵士36人とともに討ち死にした場所と伝えられている。
南北朝期、細川清氏は将軍足利義詮(よしあきら)の執事を勤めていたが、まもなく讒言(ざんげん)にあい、謀反の疑いを受けて南朝方に走った。四国平定をねらって、阿波を経て讃岐に入り、三木郡白山の麓に陣を置き、次いで白峰山麓の高屋に城を構えた。一方、頼之は備中で山陽道一帯の南朝方の反乱を鎮圧中であったが、義詮から清氏追討の命を受けて直ちに讃岐国宇多津に入り、青の山の西麓に陣を張った。貞治元年(1362)7月24日朝方、頼之は清氏の居城である高屋城へ押し寄せ戦火を交えたが、頼之の奇策により清氏は手兵を割かれ、突然の奇襲になすすべもなく、この地に滅んだ。この合戦を白峰合戦という。

                                 讒言:事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを悪くいうこと